福岡市住宅供給公社 44年のあゆみ

第1号 鶴田団地
昭和40年 公社の産声
戦後経済復興の節目となった東京オリンピック翌年の昭和40年、 国は住宅供給の推進を一大政策に掲げ、地方住宅供給公社法を制定、 各都道府県及び人口50万人以上の大都市が、 持ち家分譲など公的住宅の供給を推進できるように法制度が整えられる。 福岡市住宅供給公社は、 福岡市建築局の事業を部分的に継承する形で昭和40年11月1日、産声をあげる。 当時、国の住宅事業部門は、昭和30年設立の日本住宅公団が主体となって取り組んでおり、 当公社は、国、県との連携のもと、本市の住宅施策の一翼を担うべく努力を重ねていった。

昭和45年 下高宮住宅に公社初の住宅管理組合誕生
昭和40年代 草創期
量的充足に応えて─第1号団地は鶴田、土井、今宿
公社事業の特色として、勤労者のマイホームの夢をかなえるため、 低額の頭金で住宅が手に入る仕組みの「積立分譲住宅方式」を打ち出す。 当公社の分譲住宅は、昭和41年度募集の鶴田団地(一般分譲住宅)戸建220戸、 土井団地(積立分譲住宅)戸建240戸、 今宿団地(積立分譲住宅)戸建30戸の計490戸が好評裡に完売したことをもって幕を開ける。 設立4年目の昭和44年度には、年間供給戸数が700戸台に乗り、 以後は昭和48年度の1,000戸を最高に昭和51年度までは年間800戸前後をコンスタントに供給。 この期間が当公社の草創期であり、全盛期でもあった。

昭和56年 福岡市営地下鉄(室見〜天神間)開業
昭和50年代前半 転換期
百万都市福岡・地下鉄時代を迎えて質的転換へ
一世帯一住宅から「一人一室へ」。 そうした居住条件に要望が集まりだした昭和50年代、 住宅政策は、「質への転換」をめざすようになる。 団地の「遠・高・狭」が不人気となり、国においては、一人一室、 一世帯に一共同室を原則とした「平均居住水準」を定め、 質の向上を誘導することになる。

昭和56年 奈多団地
昭和50年代後半 激動期
香椎浜で奮戦
公社経営に不況の影が差す。 55年、宅地開発公団と住宅公団の合併による 「住宅・都市整備公団」の発足。 56年、国の第4期5カ年計画は、 5年間で770万戸(うち民間自力住宅分が420万戸)の住宅建設を見込み、 住宅事情もフォローからストックへと段階を上がった。 又、マクロでは総住宅数が世帯数を上回り(一世帯平均住宅数が1.11に)、 団地開発や宅地開発は民間との競争が激化しつつあった。 長年、当公社の主力商品だった「積立分譲」の魅力が薄れ、 当公社の積立分譲住宅は昭和55年度の奈多団地120戸を最後に、 一般分譲住宅に収れんした形になる。 この昭和50年代後半は、在庫増(売れ残り)が目立ちはじめたので、 「財政安定3カ年計画」(昭和59年から)を策定し、経営体質の改善に努める。

平成元年
シーサイドももちでアジア太平洋博覧会-福岡89開催
昭和60年代〜現在 発展期
公社新時代への架橋
円高不況・住宅不況期の昭和58年から昭和61年度までは、 年間の分譲戸数が100戸未満という低調さから、 昭和62年度にはやっと雲間から光が見え始めた。 この年は香椎浜、美和台、香椎宮の台、野方道隈台の4カ所で合計280戸を販売。 平成景気の後押しを受けて売り出せば即日完売のケースが出てくる。 財政再建プランの中で、商品作りから販売まで、それぞれ蓄積したノウハウと技術力が生かされる。

クリスタージュ
未来へ
ナイスティの夢
厳しい経済環境と社会変動は、将来予測を困難とするものですが、 福岡市がめざす都市像の中で、当公社の役割も又変貌を遂げつつあります。 それは、昭和の終わりから平成にかけて住宅リフォーム事業(昭和63年4月開始)、 借上住宅供給事業(平成5年3月採択)、賃貸事業(平成6年12月方針決定)等の事業開始であり、 事業内容の中心が分譲住宅から住宅ケアの総合的業務に移りつつあることにもうかがうことができます。

もちろん、「シーサイドももち」「西福岡マリナタウン」の街づくりの戦略が示すとおり、「海と歴史文化、豊かな自然」 の価値を生かした高水準の住宅提案も重要な市の顔となるものです。 このような住宅をはじめ、市民の持家取得の希望は、依然として高いことから、 今後とも、良好で求めやすい分譲住宅の供給は続けてまいります。